009 / 流出
ひっさびさに泣いた。
ひとしきり吐き出した後、男というのは悲しい生き物だなぁと、息子と自分を比較しながら哀愁に耽った。かつてはこんなに素直に泣けていたはずなのに、いつしか自分で勝手に殻に閉じこもって、人目を忍んで泣くことすらできなくなっていく。
とても不器用。
だからこそ不完全で、良いんだろな。
ああ、そういえば僕は完全なものに興味がない。
例えば黄金比というものがある。
1︰1.618。定義は勿論様々に存在するわけだが、一般的な「黄金比」という単語の使途を最優先しつつ非常に簡略に表現するなら、人間が縦横比として最も美しいと思う比率の近似値、ということらしい。
じゃあ主観を統計化したものなのかと言えば、それは全然違うわけで。この比率を黄金比たらしめるために、多くの先人が理屈を後付けしてきた歴史が存在している。
一際有名なのはフィボナッチ数列を利用した論の展開だ。確かにフィボナッチ数列は美しい。この数列自体は明らかに有意であり、だからこそ大衆の支持を得たのだろう。
ただ、それが数列としてではなく、物体の性質として内包された時に、物体自体を完全なる美に昇華させるかには疑問が残る。若干構造をすりかえて例えるなら、共有結合物質で最大の立体的対象性を有するダイヤモンドの構造美は疑いようがないが、それでゴキブリのオブジェを作成したら果たしてこれは完璧な美なのか、という話である。
せっかくなので。
今僕が使用したディメンションシフトと呼ばれる技巧は、議論において状況を再確認するための箸休めとしてかなり有用である。
一枚の絵を思い浮かべて頂きたい。
黄金比はあくまで、キャンバスの縦横比率の美しさを体現するものであって、キャンバスに描かれているものの美しさとは一切関係がない。つまり、僕が用いたダイヤモンドとゴキブリの話は、黄金比と美に対する疑問点の明示にはつながらない。
ただ、一方で黄金比が美意識と直結するかどうかの判断については、その裏付けとなるフィボナッチ数列の完全性と美意識との関連を疑っているわけで、理で結論を出すことは実質不可能である。そして、その裏付けをした張本人に論破を仕掛けようにも、当然既に亡くなっていて本丸を落としに行くこともできない。
この場合、生存しながら議論に参加している人間の主観を織り交ぜた判断を仰ぐしかないが、それはもはや理で構築した議論ではなくなってしまう。
つまり、僕はこの議論の未来について、手詰まりに近い状況を予感したのである。
こうした状況で、論点の次元(ディメンション)をひとつ下の次元に移動させ(シフト)、論者の問題意識の共有だけを目的とした確認作業を行い、議論における空吹かしを回避するなどの効果を狙うことがある。
ただしディメンションシフトは、使うことを明示して使わないと論点のすり替えや、人の意識を煙に巻く詐欺的手法として受け取られる可能性がある。要は、ディメンションシフトとは議論の外堀をメンテナンスするためだけの存在であることを忘れてはならない。
このため僕は「若干構造をすりかえて例えるなら」という前置きをし、今から主論を離れますよという宣言をしたのである。
脱線(ネスト部分)終了。
完璧とされるものの裏には、結局「完璧」とされる理論Aを持ち出そうとした故人の主観やエゴが絡むこと。そして、その正当性について噛みつきたくても当の本人が死んでしまっていて話のしようがないこと。つまり、議論の中で最も攻撃力が高い「論破」という手法が封じられている状態で、信仰者やガヤを相手にしなければならないから ≒ 僕が完璧なものに興味がない理由、という運びである。
脱線(本線直下)終了。
既に少し疲れた(笑)
さて、僕は前々から不思議に思っていたのだけれど、どうして日本の公園は砂利を敷くのだろうか。
息子を遊ばせに頻繁に通う公園があるのだが、一面灰色の砂利で覆われていて、僕はいつもそれに違和感を覚えるのだ。
一面とは言ったが、その公園の片隅にはよく手入れされた芝が生い茂る一角がある。ここはおそらく本来の地層をそのまま活かしていて、それはおそらく赤土なのだ。
これがたまらなく不自然に思う。
砂利を敷かない公園もまた、それなりの数存在しているものだから、一体何を基準にそんなことをするのか知りたくて仕方がない。
なんとなく、やアート感覚というには若干不合理なものだから、僕はそのうち建築関係者にその答えを求めることになるのだろうが、先ずは思考だ。いきなり答えを知ってしまったのでは興醒めである。
ただ、まぁ…。
この過程は僕の中に止めよう。
実時間軸で30分程度も文字に伸ばせば、表現に4時間はかかる。あいにく、今日僕には時間的余裕がない。
結局脱線と蛇足でこの章は幕を閉じるわけか。
これが思考の本質かもしれないなぁ、なんて思いながら、秩序に身を投じる準備を進める日曜の朝。